私とは何か? マハルシは最も重要な問いであると説いていましたが、私は、ミャンマーでの修行でブッタの瞑想により得たのは、「私は私をみている者である」でした。私は体でもない、感覚でもない、思考でもない、心でもない、それらは私に見られているもの。
修行でのヴィパッサナー瞑想は、朝、起床した瞬間から、夜、就寝するまで、坐る瞑想、歩く瞑想、そして日常の全てにおいて、瞬間瞬間に、自分の心に現れることと体の現象に気づきます。

腕を伸ばすのも足の一歩も、何もかもの自分の瞬間瞬間に気づく。徹底的に自分を見続け自分に気づき続ける。瞬間瞬間の自分への認識、自覚に取組み続ける。分析はしない、ただひたすら、ただひたすら、そうして禅でいう「己事究明」を文字通り徹底的にし続ける。
さて、その取組みを進めていると、様々な体験が段階的に現れてきました。体験は同時にヴィパッサナー智という洞察の智慧の悟りになりました。ヴィパッサナー智の悟りは、預流果から始まる聖者の覚りの段階前まで13段階あります。
ある日、歩く瞑想の最終レベルの方法で、瞬間瞬間の歩く足を動かす意図する心、瞬間瞬間の動いている足、足の感覚に気づき続けていると、私に混乱が起きました。
言葉で表すのは難しいです。
足、体を動かす意図する心、動かしている心、それにより生じる感覚、それらに気づいている心、気づこうとしている心、、、と、幾種もの自分の心が刹那に自分にあることを直覚し、その直覚を抱えきれないように混乱状態になりましたた。まっすぐ立っていられずよろけしました。
落ち着き混乱から脱け出そうと、しばらく目をつぶり、サマタの呼吸瞑想をしました。混乱が収まり、再び歩く瞑想を最初のレベルから始めてレベルを上げていく。すると消えた。これも言葉で表すのは難しい。
私は動いているけれど、その私の体が無い、動かす意図する心、動いているととらえている心、感覚をとらえている心、心だけしかない。その心も現れて消える、無常で実体はない。そして、ただ、その体、心をただ見ている何かがある、いる。
サヤドー(長老)との週3度の面談指導の時に、このことを報告すると、サヤドーは「それは無我の境地」とおっしゃられた。
私とは何か? 私とは私を見ている者である。体でもない、心でもない。体も心も見られているもの。肉体、肉体の機能、働きは大切。しかし、それは私たちの本体ではない。本体はそれを見ているもの。本体は、肉体、五蘊、色受想行識、五蘊の体験を見ているもの。
そして、本体は肉体が死んでも死なない。私は肉体が死んでも死なない。私たちは肉体が死んでも死なない。
宗教等では、この本体を様々な名称で呼んでいます。魂、霊魂、アートマン、真我…