浄土宗や浄土真宗で「他力本願」と言いますが、「みんな他力」で「他力本願がいい」という説明のため「他力」「他力本願」をキリスト教的に話してみたいと思います。
私は出家して禅の曹洞宗の僧となり僧堂で暮らして修行しました。禅は「自力」のものと言われることが多いですが、私の場合は禅もそうは思っていません。その理由もこの投稿でおわかりになると思います。
聖書では、人間は神様から霊を吹き込まれて、霊によって生きています。ですから新約聖書に、イエスが肉体的に死んだ者を生き返らせた時、霊が戻ったともあります。
人間は自分は「自分」で生きていると考えてしまいがちですが違うのです。すべて神様の「他力」で生きています。ですから、私たちには本当のところ「自分でできる」ことはありません。
自分でできる、していると思い込んでいるだけで、それは神様の力によってなされていることです。祈ることも、私たちは自力によってしているのでなく、神様の力によってしています。神様からの霊が抜けたら即座に肉の体は動かなくなるのですから。肉の体とは脳も含んだ身体です。
そして「他力本願」とは、煩悩凡夫、罪びとであることに気づき、この気づきも神様の力によってのものですが、気づき、神様の力のなさるように肉の体を委ねきることです。イエスがおっしゃられ見せてくださり教えてくださっているように「御心のままに」と委ね切ることです。
完全神様「他力」、そうすると欠くことがありません。神様は欠くことはないですから。
次は、聖書で私の最も好きな聖句です。
旧約聖書の詩篇23
主は羊飼い、わたしは何も欠けることがない。
主はわたしを青草の原に休ませ
憩いの水のほとりに伴い
魂を生き返らせてくださる。
主は御名にふさわしく
わたしを正しい道に導かれる。
死の陰の谷を行くときも
わたしは災いを恐れない。
あなたがわたしとともにいてくださる。
あなたの鞭、あなたの杖
それがわたしを力づける。
わたしを苦しめる者を前にしても
あなたはわたしに食卓を整えてくださる。
わたしの頭(こうべ)に香油を注ぎ
わたしの杯をあふれさせてくださる。
命のある限り
恵みと慈しみはいつもわたしを追う。
主の家にわたしは帰り
生涯、そこにとどけまるであろう。
生きとし生けるものが苦しみから解放されますように、平和で幸せでありますように